第三回 ソ連

バブル真只中の1989年入社の就職活動は、米国留学を経てキーワードは海外、その一本絞りだった。当時、売上 一千億円程度で輸出比率が70%であった工業用ミシンと産業用機械のメーカーであるJUKIを選択した。配属されたのは留学経験が活かせる米国担当ではなく、なんとソ連室だった。結果として過酷な環境で結果を出したことが大きな自信となりキャリアの原点となった。教科書に登場するソ連の五カ年計画の一環で縫製工場のプラント案件(建屋建設、生産機械、生産ノウハウまで供与)の受注営業としてモスクワを中心に活動していた矢先、1991年にソ連が崩壊。それまでの鉄のカーテンが剥がされ旧ソ連の国々が貧国であることが露呈し、また、国家からの配給に頼っていた国営企業は民営化され設備投資の資金もない状況だった。我々も石炭、綿花などの資源とのバーター(物々交換)、さらに日本のODAや世界銀行などからの経済協力案件に繋げる営業方針に転換した。その中でも1993年に契約したロシアサハ共和国のプラント案件は思い出深い。マイナス70度にもなる極寒シベリアに一年張り付き、欧州企業との入札競合の中、契約獲得。その後もプロジェクトマネージャーとして工場建設から引き渡しまで現地で仕事にあたった。食物は短い夏に収穫したものを酢漬けにして冬を越す、帽子から靴まで全て毛皮を着て外出し、鼻毛やまつ毛は息がすぐに凍って真っ白に、短い夏の間は町中の温水配管を修理するためシャワーのお湯は出ず、ホテルがないので病院に寝泊まり。ロシア語はあっという間に上達し通訳なしで仕事が出来るレベルになり、通算二年以上にも及んだプロジェクトを契約、納品、資金回収までやりきったことは大きな自信となった。
Kenhoshi&Company代表
オイシックス COO 他