第四回 北朝鮮からインド

シベリアから一度、帰国し北朝鮮向けの営業を担当した。拉致事件が明るみになる前の頃だ。公安警察から色々とヒアリングを受けたのを覚えている。需要は当時の金日成、金正日首席の誕生日に合わせて在日朝鮮人の方々が献金、献物をする際に国内で調達をするのだがその営業だ。調達された物資は新潟から万景峰号にで平壌まで運ばれたのである。さて、その仕事は一年弱、1995年にはインドに事務所を開設するためニューデリーに赴任した。当時、日本人は百名強。まず訪問したのが世界中に支店網があった当時の東京銀行と大使館である。指南を受けて弁護士、公認会計士を選任し事務所登記、そして社員採用、代理店網整備をし販売拡大にあたった。大変だったのが生活だ。当時のインドは毎日、数時間の停電、水は数時間の供給のみ、夏の気温は50度を超えた。スーパーはなく、小店舗で買い物をするのであるがインド製のみで品揃えも少なく衛生的にも劣悪で免疫力の低い外国人は皆、下痢に見舞われた。外国企業は三ヶ月ごとに駐在員にシンガポールやタイに買い出しを認めており、そこで大量の食材を買い込むのが通例であった。また、駐在員宅にカラオケがあるのが普通で、持ち寄りでストレス発散をした。ケーブルテレビで海外の番組を観れたが、そのケーブルが各家の屋上で配線されている。ある日、テレビが映らないので屋上で確認したら途中でケーブルが切断され隣家に引き込まれていた。郵便配達員に定期的にバクシーシと呼ばれる施しを渡さないと配達をしてもらえない、家の使用人に盗まれた日本の食材がマーケットで売られていたこともある。ウィスキーも減っていたので酒棚はチェーンで開かないようにした。ここでの生活では鍛えられたが今はいい思い出だ。
Kenhoshi&Company代表
オイシックス COO 他